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半導体全盛期に、あえて素材を選んだ ―― 専門を越え続けた研究者の肖像半導体が時代の主役だった1980年代。物理を学んだその人は、多くの同級生が進んだ花形の半導体メーカーではなく、あえて素材メーカーの門を叩いた。炭素繊維、超電導、光ディスク、ディスプレイ――そして40歳半ばでバイオへ。一社に40年在籍しながら、専門も事業領域も次々に越境してきた研究者・信正均氏。前編では、その異色のキャリアの“流れ”を、本人の言葉でたどります。
<話し手プロフィール>
信正 均(のぶまさ・ひとし)
1958年生まれ。大阪大学大学院で物性物理を修め、1984年に大手化学・素材メーカーに入社。約40年にわたりゼロからイチを生み出す新事業・新製品の創出に取り組む。炭素繊維複合材料、超電導材料(工学博士を取得)、光ディスク、ディスプレイ部材を経て、2003年からバイオへ転身。高感度DNAチップやマイクロRNAによる診断技術の開発を主導した。現在は産官学連携のコーディネーター。

インタビュアー: 本日はよろしくお願いします。まず、ご経歴からお聞かせください。
信正氏: 1984年に大阪大学の修士を修了して、すぐに素材メーカーに入社しました。それから40年余り、一貫して新事業・新製品の創出、すなわちゼロイチに取り組んできました。学生時代の専門は固体物理で、低次元化合物磁性体の秩序化の現象を研究していました。そのときグラファイトはじめ、各種化合物が研究対象となっていました。その関係もあって、素材そのものに関心を持っていました。私が卒業した1984年頃は、まさに半導体の全盛期で、半導体工場の建設ラッシュ、各社競争が激化していた時代でした。物理系学科の卒業生の多くは半導体関連の会社に就職されました。そのなかで、私は珍しく化学メーカーに入ったわけです。化学は決して得意ではありませんでしたが、化学の力は偉大であり新しい素材を創出して世の中に貢献できる、また、化学会社のなかで物理の発想で物性を捉えることが新しい発見をもたらす、と考えたからです。
インタビュアー: 最初の配属は。
信正氏: 炭素繊維複合材料の研究室です。今や航空機の多くに炭素繊維と樹脂を組み合わせた複合材料が使われていますが、当時はまだ、壊れても致命的にはならない二次構造体に使われはじめたころでした。その研究室で、私はちょっと異質なグループにいました。多くの人は航空機部材の強度や弾性率をはじめとする力学特性向上の研究に取り組んでおられたのですが、私は力学特性以外――電気や振動、熱といった特性で新しい用途を探す担当だったのです。航空機用部材を本流とするならば傍流です。スピーカーコーンやパラボラアンテナ、テニスラケットや釣り竿の振動特性などを解析していました。電波吸収体では、発明賞もいただきました。また、炭素繊維と超電導材料の膨張係数が近い物性に着目して炭素繊維に超電導材を被覆した超電導線材の開発も担当していました。それが、次の領域に移るきっかけになりました。
インタビュアー: そこから扱う領域が、どんどん移っていくのですね。
信正氏: ちょうど1986年に、セラミックの高温超電導材料がIBMの方々によって発見され、ノーベル賞を受賞されました。超電導線材の研究に取り組むのなら高温超電導材料そのものとその薄膜化の研究に取り組むべき、ということになって、徐々に複合材料から離れ、電子情報材料の研究所に移って行きました。
次に担当したのが光ディスクです。
それまで会社は磁気テープのベース材料であるフィルムで大きな事業を展開していたのですが、記録メディアは用途によってすみ分けられながら磁気テープからハードディスクや光ディスク、そして半導体メモリと変遷して行くとの予想から、次の時代に備えて事業化を目指して立ち上げられたテーマです。超電導材料の研究で薄膜化の技術を身につけていたので、その薄膜の技術を生かして開発グループに合流しました。
その後は、いったん企画部門で2年ほど全社の研究テーマを支援する業務に就き、そこで一機に社内のネットワークが広がりました。その後、再度研究所に戻り、プラズマディスプレイの背面板の開発に従事しました。一社にいながら、担当がずいぶん変わったとお思いでしょうがそうでもありません。会社は機能本部制であり、研究者は保有する要素技術を活かせる部署に機能的に異動する体制でしたので私自身の専門性や技術領域は変わらず、テーマが変わるたびに少しずつ新しい技術が蓄積されて来たという印象です。
インタビュアー: そして2003年に、大きな転機が。
信正氏: ええ。それまでは固体物理出身の私にとって違和感のない経歴だったのですが、ある日突然「鎌倉に行きなさい」と言われました。会社は鎌倉でバイオの研究をやっていて、そこにバイオとナノ・材料を融合させた全く新しい研究所を作るから、と。バイオの「バ」の字も勉強していなかったので、バイオの研究者が話す専門用語がまったくわからず。それが今からもう23年前のことです。最近よくリスキリングと言いますが、かっこうよく言えば、私は23年前にリスキリングしたことになります。まあ、無理やりやらされた部分もあるのですが(笑)。ただ、面白いもので、光ディスクやディスプレイ材料で培った微細加工の技術が、バイオの世界では思わぬ武器となりました。樹脂やガラスを微細に加工するのは私には当たり前でしたが、バイオの方々にはイメージしにくいことだったのです。 一見、飛び地に見えても、技術としてはちゃんとつながっていた。 そういう40年でした。 とはいえ、新しい材料や分野にゼロから挑戦するのは容易いことではありません。サステナブルに発展する事業につながったものを成功とするならば成功はほんのわずかで、その間、要素技術が蓄積されていきました。
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