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インタビュー
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材料、車体、電動化、そして研究企画。日産自動車での30年、担当する領域はおよそ5年ごとに変わっていった。それでも本人は「自分を何かの専門家だと思ったことは一度もありません」と言う。さらに、こうも言う――「私には、働いた記憶がないんです」。
2026年5月にIBLCへ加わった穐場亨氏。全3回でお届けするこの連載の第1回は、なぜこの人のもとに「道筋のない仕事」ばかりが集まってきたのか、その始まりをたどる。
目次
<話し手プロフィール>
穐場 亨(あきば とおる)
株式会社アイ・ビー・エル・シー コーディネータ/元・日産自動車株式会社、元・株式会社日産アーク
1963年生まれ。埼玉県立春日部高等学校を経て、東京工業大学機械物理工学科を卒業、同大学院(物理情報工学専攻)を修了し、1989年に日産自動車株式会社へ入社。自動車用材料の研究・開発、FEMによる構造解析、車体構造の最適化(軽量化・衝突安全)、モーターショー展示車両の車両コンセプト立案、車両の電動化(ハイブリッド4WDの研究・開発・商品化支援)、さらに研究企画(電動化・自動運転・モビリティサービス・都市交通)と研究リソース管理を歴任。2016年よりNPO法人ITS Japanへ出向し、MaaS(都市交通・地域交通)の調査・情報発信にあたる。2019年、株式会社日産アークへ。SPring-8・ナノテラスなどの放射光計測を含む材料分析サービスの運営・管理、広報・DX(SEO対策、kintone導入・アプリ開発)を担当。2003年から2020年度まで拓殖大学工学部非常勤講師を兼務。2026年5月、IBLC入社。

インタビュアー:まずは、ご経歴からお聞かせください。
穐場氏:大学と大学院を出て、1989年に日産自動車に入りました。最初に配属されたのが材料研究所です。それからずっと日産にいたのですが、日産でのキャリアの最後の3年は、会社の指名でNPO法人ITS Japanに出向していました。日産を辞めたあとは日産アークへ。IBLCは、自分では4つ目のキャリアだと思っています。
インタビュアー:日産で「研究」というと、具体的にはどんな研究をされるところなんでしょうか。
穐場氏:大きく5つくらいの領域があって、私が最初に配属されたのが材料系です。それから車体――いわゆる衝突安全のような話ですね。あとは、当時はまだ可能性が広がっていたハイト系の車両。今の方にはピンとこないかもしれませんが、昔はセダンとワンボックスしかなかったんです。その中間の、少し背の高い車のかたちが出てきて、そういう車をどう考えていくかが一つの研究領域としてありました。そして電動化。最後に、エンジン本体です。
インタビュアー:そのうち、いくつ関わられたんですか。
穐場氏:関わったことがないのは、エンジン本体だけです。
インタビュアー:材料から車体、そして電動化へ。普通は一つの分野を深めていくものだと思うのですが、そういうキャリアの積み方もあるんですね。
穐場氏:それが、狙っていたわけではないんです。たまたま、やる人がいなかった。
インタビュアー:そんなことがあるんですか。
穐場氏:チャレンジする人がいなかったり、単純に人が足りなかったり。社内にはいろいろな事情がありますから、「じゃあ、次はこれをやって」と。専門ごとに人が分かれていると、その中間にある領域や、新しく始めようという話になったときに、うまい人がいなかったりするんですよ。そういうものが多かったですね。
インタビュアー:ご自身としては、一本筋を通したものをやりたかった、という思いはなかったのでしょうか。
穐場氏:あまりなかったですね。同じことを長くやるのが、好きじゃないんです。専門家の方のように一つのことを突き詰めるのは、正直なところ苦手で。新しいものは新しいもの、という方が興味も出るし、元気も出る。そういう意味では、ちょうど良かったんだと思います。
インタビュアー:ご自身の武器は何だとお考えですか。
穐場氏:自分を何かの専門家だと思ったことは一度もありませんし、強力な武器を持っているとも思っていません。ただ、これまでの社会人生活を振り返ってみると、一つ共通していることがあって。道筋のない仕事をポンと渡されることが多かった、ということです。理由は分かりませんが、自分には合っていたような気がします。だから、常に新しいことに挑戦している感じでした。
インタビュアー:渡されるたびに、ゼロから覚え直すわけですよね。
穐場氏:それと関連するのですが、狭い範囲でもいいから、自分が担当した領域については1年後にはきちんとオピニオンが言えるようになること。それが、自分に課すようになった課題です。
インタビュアー:研究所にいらしたときは、テーマは与えられるものだったんですか。
穐場氏:研究企画に移るまでは「これをやりなさい」というものはありましたが、ほぼ自分の好きなようにやっていました。というより、私には働いた記憶がないんです。
インタビュアー:……どういう意味でしょうか。
穐場氏:好きなことをやっていたからです。もちろん説明はしなければいけないので、パワーポイントに「こういうことをやりたい」「こんなことができる」とまとめて、認めてもらう。予算が余っているところからお金をもらって、新しいものを作って試してみる。そんなことをやっていたので、あれをやりなさい、これをやりなさいと言われることはあまりなかったですし、言われてもあまり気にせずやっていました。1年経てば何か成果を出すから、それまではほっといてくれ、と。
インタビュアー:それで通っていたんですね。
穐場氏:IBLCに来て初めて、仕事って大変なんだな、と知りました。(笑)
インタビュアー:ひと通り研究をやられたあと、今度は研究企画に移られます。
穐場氏:研究所全体でどんな研究をやるか、それにどれくらいの予算を割り当てるか、という仕事です。研究テーマを見渡して、予算を配分して、マイルストーンをどこに置くかを決める。それを集約してまとめて、役員に説明する。
インタビュアー:研究所のまとめ役ですね。
穐場氏:ちょうど、研究のやり方そのものを変えましょう、という時期でもありました。研究のやり方は少しずつ進化させていかないと、世の中に取り残されてしまいますから。それまでは毎年、一人あたりいくら、というお金が振り分けられて、1年間それで研究する。ただ、それだけではなかなか成果が出ないんですね。そこで、提案をしてもらって、提案した人にお金をつけるやり方に変えようと。
インタビュアー:方針は出たけれど、やり方は決まっていなかった。
穐場氏:そうなんです。具体的にどうやるのかが決まっていなかったので、そこの仕組みづくりですね。マイルストーンを置いて、ゲートを設けて、やる・やらないをどうジャッジするか。
インタビュアー:研究の現場を一通りご存じだからできる仕事のようにも思います。
穐場氏:自分の頭の中で「やりたい」と思っていたことは、その頃までにほぼやり尽くしていたんです。自分が手がけた規模より大きなものが、次に思いつかなくなっていた。だったら、今度は人をサポートする側に回るのもいいんじゃないか、と。
インタビュアー:ずいぶんすっきり切り替えられたんですね。
穐場氏:役員が見に来る研究所の展示会があると、そこに並べるパワーポイントを何百枚も直したりね。同じ会社とは思えないくらい、仕事の中身は変わりました。
「これまで失敗は多いです」と言い切る穐場氏が、「強いてあげるなら」と口にした唯一の成功体験。電動化が花開くかどうかも分からなかった時代に、モーターで「絶対にスピンしない車」をつくる。北海道のテストコースに4週間泊まり込んだ研究は、どうやって商品になったのか。次回は、その成功の要因と、失敗の捉え方を伺います。
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