萩原 利行
私たちの体は60兆個の細胞でできていると言われています。想像を絶する数であり、これが調和して生体を構成し生命を維持しているのは、本当に奇跡のようなことです。様々な細胞が時間軸においてズレを生じず(または補正して)、コントロールされています。人類の叡智をかき集め、研究に研究を重ねても、自然には敵わないと思えてしまいます。しかし、人類はこの絶妙にコントロールされている細胞群を用いて、色々なところに応用しようとしています。再生医療、培養肉などは典型的な例であり、注目度が高く、世界的に猛烈な勢いで研究が進んでいます。
21世紀は生命科学の時代と言われています。その主体は細胞にあると言っても過言ではありません。人類が挑戦中である 『細胞に未来を託す』 試みのいくつかを紹介します。
1. 再生医療への応用
ヒトiPS由来細胞が樹立され、早16年が経ちました。夢の技術として大きな期待が持たれています。不可能を可能とする技術です。16年の月日が経ち、臨床への応用も始まっていますが、未だ解決されていない大きな問題があります。それは、スピードとコストです。スピードについては、細胞培養を2次元から3次元に移行すること、具体的には、スフェロイド(細胞凝集塊)、オルガノイド(ミニ臓器)、Layer-by-Layer 3次元生体組織の構築などの検討、コストについては細胞バンクの利用やゲノム編集を用いてHLAホモiPS細胞を編集することで細胞への適合患者数を増やすことなどが進められています。これ以外にも多数の検討がなされており、スピードとコストと言った難題においても、いずれは解決される問題であると信じています。
図1は、細胞の効率的な継代作業を実現した3次元大量継代自動化技術の一つです。金属メッシュフィルタを用いて小型の細胞のみをセレクトし、繰り返し培養を可能としたものです。
一方、スピードとコスト以外にも課題はあります。細胞のシグナル伝達等が、細胞内外の環境により変化することや、培養環境の僅かな違いにより再現性が得られないことなどです。さらに、技術的な面に加え、様々な関連産業(消耗品や関連サービス)が支えるサプライチェーンの構築も求められています。16年が経過し、著しく技術は向上しているものの、さらなる細胞への寄り添いが求められるものと考えます。
2. 培養肉への応用
世界の人口増加による食糧危機、家畜から排出される温室効果ガスの削減、動物愛護の観点などの理由により、大豆などを活用した代替肉が開発され、既に商品化されています。また、この流れの延長線として、より本物の肉に近い培養肉への期待が高まっています。世界の食用肉市場の売上規模予測では、2025年から2040年の培養肉の年平均成長率は41%となっています。また、2040年時点での世界の食肉市場は、家畜からの肉が40%、植物利用の代替肉が25%、培養肉が35%となり、市場規模は1.8兆米ドル(234兆円:130円換算)になると予測されています(米国A.T.カーニー調査)。
培養肉は、動物から採取した筋肉組織から細胞を単離・採取し、大量に増殖させます。この増殖において工夫が求められます。スフェロイドによる方法やシートにして重ねる方法、筋繊維を束ねる方法など様々な検討がなされています。いずれの方法においても、筋肉細胞のように増殖のために足場を必要とする細胞では、足場をいかに確保するかがポイントとなります。足場を確保し、増殖能と分化能を維持する必要があります。ちなみに、足場材料としては、多孔質材料である組織状ダイズタンパク質や食用血漿ゲル、コラーゲンゲル、マイクロキャリアビーズなどが報告されています。
一方、代替肉・培養肉が低コストで作製できたとしても、味や食感において満足が得られなければ商品として成り立ちません。代替肉は、味・食感いずれにおいてもかなりなレベルに達していますが、培養肉は現時点において、そこまでには至っていません。また、同じ肉と言っても、様々な種類があります。品揃えを考えると、これまで以上にユニークなアイデアが求められると思います。
2013年Post教授らが作製した培養肉ハンバーガーは、1個約3,800万円しました。その後、低価格化が進み、味や食感を無視した場合にはkgあたり3万円程度のものも作れるようになっています。培養肉の価格が高いのは、培養に手間と施設が求められることに加え、原材料となる仔牛胎児血清(FBS)や成長因子(FGFやTGFβetc.)などが高額であることが原因しています。FBSについては、脱FBSの方法が開発されてきましたが、成長因子については、低価格の代替品がいまのところありません。そのため、成長因子をフィーダー培養槽にて培養する組織から得る方法なども試みられています(図2)。
代替肉や培養肉への対応は、資源に乏しい日本にチャンスを与えるものだと思います。日本の技術が試されているとも言えます。既存の農産物と上手に棲み分けをしながら発展して欲しいと願っています。
3. 評価系への応用
動物愛護の観点から、動物試験に替わる評価系が模索され、多くの手法が開発されてきました。中でも、細胞を用いた評価系(代替法)は、ヒトiPS由来細胞の利用と共に注目度を増しています。これは、ヒトへの外挿性の向上を目指したものでもあります。新薬の開発において、動物試験による非臨床試験で問題がなかったものが、臨床試験で開発中止となる場合があります。動物とヒトとの代謝や免疫系の差による場合もあります。ヒトiPS由来細胞を用いた評価は、この点の改良が含まれています。
臨床試験で開発中止となる化合物の内、約20%は心臓に関連した副作用であると言われています。図3は、ヒトiPS心筋細胞を用いた心毒性評価手法を図式化したものです。再現実験がし易いのも細胞試験の利点となります。
一方、近年評価系として注目されているものに、マイクロ流路デバイスを技術基盤とした生体模倣システム(マイクロフィジオロジカルシステム:MPS)があります。マイクロ流路デバイスは、機械切削、3Dプリンタ、半導体製造プロセスなどの微細加工技術を応用したものであり、生体内を模倣した微細構造を人工的に作製したものです(図4)。ヒトiPS由来細胞を用い、複雑な反応を生体外で確認するシステムとして期待されています。
4. 3次元培養技術
2次元培養の欠点を補う方法として3次元培養が試みられており、多くの知見が得られています。方法としては、ゲルを用いた培養法、シート培養法、スフェロイド培養法、オルガノイド培養法、灌流培養法、攪拌培養法、脱細胞での培養法、3次元バイオプリンティング法、その他の高分子材料を用いた培養法など多数あります(図5はその一例)。この内、折り紙を培養に活かした方法や、培養ゲルを用いた方法などは、とてもユニークなものであり、日本的な独特な発想により開発された方法だと思います。
<思うところ>
日本には、酒・醤油・納豆など、醗酵に関する高い技術があります。バイオ医薬品などは、この醗酵技術を応用することで、日本が世界に対し大きくリードするチャンスがありました。しかし、その技術力を活かすことができず、いまは世界に対し遅れをとってしまいました。
日本には非常に優れた技術があります。優秀な研究者や技術者が沢山います。その優れたものを、社会に実装していくためには 『協働』 が何より大切であると思っています。いわゆるマッチングです。自前でやろうとした場合、専門性が高くなればなるほど、お手上げ状態になります。だからこそ、お互いの強みを持ち寄り、協力し合って、成し得なかったことを現実化することが大切になります。それが賢い選択だと考えます。 『細胞に未来を託す』 この壮大な夢を、日本にて現実化して欲しいと思っています。
2023年6月20日
著者:萩原 利行 (はぎわら としゆき)
出身企業:第一三共株式会社、他2社
略歴:三共株式会社(現第一三共株式会社)に入社後、新薬の安全性評価及び研究に従事。その後、医薬品製造における品質保証業務、抗体医薬品製造における品質保証システム構築を経た後、萩原利行技術士事務所を開設
専門分野:細胞生物学、生物化学工学(培養工学)
資格等:博士(理学)、技術士(生物工学部門)
出典URL:
図1:https://www.chusho.meti.go.jp/sapoin/index.php/cooperation/project/detail/4427
図2:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000034252.html
図3:https://www.saga-u.ac.jp/koho/press/2020060219549
図4:https://www.innervision.co.jp/sp/products/release/20211009
図5:http://www.hybrid.iis.u-tokyo.ac.jp/research/3dtissue
https://www.riken.jp/press/2023/20230131_1/
https://xtrend.nikkei.com/atcl/
contents/18/00079/00009/
*コラムの内容は専門家個人の意見であり、IBLCとしての見解ではありません